ログハウス

趣味の画像と家族日記。 主に児童向けの映画、書籍、TVの感想や家族の話題を徒然に綴ってます。

宇宙戦士バルディオス~その愛 (1)

Posted by ふざけおに on   0 comments   0 trackback

劇場版冒頭、S-1星の灯台で、二人は汚染された紅蓮の海を見つめていた。
全き魂を持つ者は、「汚れた海も美しく蘇る」と、世界は可逆的だという希望を忘れない。
傷ついた魂を持つ者は「汚れた海は元には還らない」と、不可逆の悲哀を知る。
同じ青い海に憧れていても、見つめるその果てにあるのが希望か諦念か。
その違いが、悲恋の結末を暗示している。

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○アフロディアの愛
一体その人を憎んでいるのか、愛しているのか、自分の心がわからなくなるほど深く人を愛したことがあるだろうか?
愛の深淵に迷い出た時、愛と憎しみは決してそれ単体で存在することのない双頭の蛇のように、複雑に絡み合い、自意識を蝕んでいく。
高慢な自尊心は、制御できない感情に理性が敗北する苦い屈辱に喘ぐ。
一方で圧倒的敗北を重ねる毎に、深層に疼く甘美な陶酔に目覚めていく。
やがて狂気似た熱情は裡に隠せぬほど肥大し、相反するアンビバレンツな感情に引き裂かれて、自らを破綻させるまで止まらない。
始点から必然の帰結へと、誰しもが強固な信念に殉じ一定の方向に向かう中、反転、一人愛に殉じて、怒濤の奔流を逆走し力尽きた。
修羅のごときその生の終焉に、愛憎の苦悩は本来の愛に統合されていく。
全てを失ったその代償に、希求し続けた至高の安らぎを得、その魂は宇宙の摂理に還って行くのだ、、、

人類は愚かしくも運命に翻弄されるが、その世界にたった一人過酷な運命に抗う人間性の勝利が微かに潜んでいることを見逃してはいけない。

「人の愛は憎しみを超えるか?」

大いなる宇宙の意志に試された受難者の魂を手に、ファウストの勝利宣告が響く。

時よ止まれ!お前は美しい

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作品に対しいろいろ複雑な思いはあるんです。でもまあもう時効だから、まずは愛を語ろうかと。。
とりあえず私が、何故特に仲間うちと話題にすることもないこの作品が好きなのか、何年も時折思い出しては自分の中で物語を完結させてしまうほど、のめり込むその魅力を語れたらと思いました。
特にアフロディアという悲劇の予感ありありのヒロインに惹かれる理由というあたりから、積年の作品への愛を語りたいです。。
(だいたい、私ってば、陰のあるキャラ、一乗寺賢君やアナキン・スカイウォーカーやスネイプ先生好きだから、もうこの辺は同一線上で、彼女はその原点ですかね。それまではトリトン、009、大鷲のケン、古代進君という陰がない正当派の方が好みでした、笑)
ちなみに劇場版、小説、TV版、すべて私の記憶の中では、展開の相違はあってもだいたい同じテーマを謳った一つの作品として捉えていますので、さほど明確に区別してないです。対応する部分が、劇場版だったりTV版だったりするのであしからず。

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○安寿と厨子王
アフロディアの弟への依存はどこから来るのだろうか?

アニメと言えばシスコン・ブラコンが代名詞(シャアとセイラに代表される)と揶揄する向きもあるが、文芸作品において年長の子が弟妹を庇護するシチュは特に戦争物ではよく扱われる題材ではある。たとえば「蛍の墓」や実の兄妹でないにしても「禁じられた遊び」なんかはズバリそのもの。
個人的にはアフロディアとミランは鴎外の「山椒大夫」をイメージしていた。母性愛と恋愛は反比例するものだが、庇護が必要な対象を前に、生物的本能は恋愛より母性を優先的に強化する。
彼女のミランに対する愛は、母性であり、失った両親への思慕の代償であろう。

(※余談になるが、昔南京ねずみを飼った時の経験がある。母ネズミが子ネズミを産んでまもなく猫にさらわれてしまった。その直後巣をのぞくと、1匹だけ手元に残していた半年前に生まれた姉ねずみが、母親が妊娠してからはずっと母親や兄弟と距離を置くように無関心に独立を保っていたのに、母親不在となると兄弟の元に駆け寄り自分が紫色になるほど体を必死に伸ばして、子ねずみを自分の腹の下に隠し、外敵から守ろうとしていた。原始的ほ乳類のDNAに組み込まれた雌の母性本能には驚嘆したものだ。)

○対象喪失
アフロディアは、自分が持てる愛情のすべてを弟に向け、弟の将来を夢見て、それを生き甲斐にしていたのかもしれない。そういう自己犠牲的生き方に陶酔し、自身の抱える様々な矛盾や不合理を正当化し安定を保ってきたのなら、弟の死に際し、悲哀以上に狼狽を隠せないのも無理からぬことという気もする。
彼女は子を失った手負いの獣のように、最愛の弟の「仇討ち」に没頭するが、それは両親喪失の代償をさらに喪失するという痛手から立ち直ろうとする防衛機制だろう。
弟の仇打ちに異様に闘志を燃やすのも、弟のため、死んだ両親のためであり、結局誰かのためにしか自分が生きる意義を見いだせない、彼女の他者追従の脆弱な生き方の延長なのである。

○「近親相姦的」ぃぃぃ????!!!
という首藤氏の表現は正直違和感ある。そうですか??
これを根拠づける、「アフロディア25歳、戦闘司令官。人を愛したことはない。弟のミラン以外は」というスパロボでも取り上げられている、いかにも男性が好きそうな台詞があるからだろうが、、ちょっと待てよ。と。弟以外の人を愛したことはないってことはないだろうに?と。
現実に、彼女はガットラーが死んだら生きては行けないというほど愛しているし、死んだ両親のことも愛してたことは容易に想像できるわけだし、リスルのことも少なからずかわいいという親愛の情を抱いていたし、ここであえて「弟以外は」と言わせると不自然な感じがする。じゃあここで彼女の言う愛は、博愛ではなく、特定の異性に対する恋愛を指すのかなと。となると、弟に疑似恋愛感情を抱いていたということかなと。もし恋愛感情だとするなら、確かにミランの代償にマリンに夢中になるのは、ある意味必然とも言えるのだけど、、、、
個人的にはその解釈は不健康過ぎて好きになれないというか、自然の摂理に逆らうような性愛は、前述したように庇護すべき幼い対象がいれば母性が優先するので起こらないのではないかと思う。母性を発揮する必要がなくなれば、自然に本能は恋愛に傾くわけで、だんだん死んだ弟よりも、恋愛相手の方が大きな存在になっていくのも当然である。
相手が奇しくも彼女が恋愛に傾く原因を作った男だったわけだが、マリンはある意味彼女の呪縛を解いたとも言え、マリンに出会って彼女は誰のものでもない自分自身の人生を歩み始めたとも言える。それがまた皮肉にも人生の破滅を意味するのだけれど。。。。
話は戻って、いずれその後の彼女の言動が証左となるが、マリンに対しては肉親に対するそれとは全く違う、官能を伴った特別な感情を抱いているわけで、家族愛・隣人愛=博愛とは違う種類の愛である。
単にあの時彼女は、恋愛のなんたるかを知らずに、「弟とへの愛」と恋愛を同列にふと口にしたのだろうと私は解釈している。

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