ログハウス

趣味の画像と家族日記。 主に児童向けの映画、書籍、TVの感想や家族の話題を徒然に綴ってます。

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宇宙戦士バルディオス ~その愛(3)

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○真に女を捨てる時
捨てるというのは、禅で言う執着を放すことである。(SWレビューで「放す」というヨーダの禅問答についてずいぶん話題にした気がする)
アフロディアの真の善良さ・優しさが作中最も輝くのは、自分を掴むマリンの手を、彼のために放させようと苦心している時だ。
アフロディアはBFSに囚われの身になるが、マリンは彼女を庇うため、彼と仲間との間に軋轢が生じる。アフロディアは、マリンとBFSとの亀裂を望まないため、彼の仲間であるBFSに自分を殺させるわけにいかない。また自分の本心がどこにあるのか、絶対マリンに悟られてはいけない。それはこれ以降においては、自分のプライドのためではなく、マリンの心を惑わせないためであり、彼に寄り添う清純な少女に彼を返すためだ。
組織に残されるマリンに傷が残らない形で事態の収束を図るには、マリンに自分を撃たせるか、彼の敵であるアルデバロンに撃たせるか、死に場所を探して、彼女は極限の中で精一杯の芝居を打つのだ。
ジュリエットはロミオに名前(家)を捨ててくれと祈るが、アフロディアは決してロミオに家を捨てろとは言わない。自分は組織もしがらみも全てを捨てても、彼にはそれを求めない。諦めることを知っているのだ。むしろマリンを、彼の仲間と、自分は失った純潔を持つジェミーに、けなげにも彼を放そうとするのである。
とりもなおさず、それは彼女が今まで狂ったように拘り続けたマリンへの執着を捨てた時と言えるわけで、彼女がマリンを放した瞬間、彼女は真に女を捨てたといえる。
一切を捨てた時、彼女の魂は真の愛(本当のさいわい)という、より高位のステージにある。(主にTV版36話)
冒頭述べた、彼女特有の諦念の美徳である。
マリンやジェミーのように健全な魂を持つ者は、一切を捨てられない。希望までも捨てることはできないのだ。

○愛と信念
実はアフロディアはさほど強い信念を持ち合わせていない。単に人に忠実なだけだ。
彼女が物語上、最高司令官という社会的地位を得ても、対局にいるクインシュタインと違い浅薄に見えるのは、彼女にとって大儀や理念は殊更重要ではなく、弟も含め追従する男のために戦っているというのが動機のほとんどを占めるからだ。
マリンに代表される理想と信念のために戦う者達に対し、何とも軟弱な存在であることよ。
でもここでふと立ち止まる。信念のために戦い続け、決して負けまいとすると、何が起こるかというこの作品の結末だ。
信念も正義も所詮人智の範疇。何ほどの物かと。宇宙から見れば、正義も矮小な人間のエゴに過ぎない。だから宇宙の大いなる意志は身の程知らずの人類が太陽系外に出ることを許さない。(万歩計つけてもイスカンダルに行けないな、笑)
この辺、あまり深く立ち入ると、仮面ライダー龍騎での議論に近づいてくるし、語るとするなら、「バルディオス~その正義」という章を興すことになると思うが、、一応私のスタンスとして、
基本的に正義の相対性を語るために、悪意やエゴを正当化美化する作品は好きでないし、バルディオスに一貫した正義はあって、マリンの正当性は揺るぎないと思っている。
侵略は、生物のなわばり争いの延長にあり、よりよいえさ場を求めた生存競争で、我々は皆過去の侵略の勝者だからこの地に堂々と君臨しているのだ。しかし、自分たちの住む環境を破壊し万物を滅ぼすまで争うのは、この地上において文明を持つ人間だけである。だから開戦する者は地球から見れば、どんな大儀があろうと人間のエゴで悪だ。でいい。
ただ、あまりにBFSの正義に視野が狭窄すると、アフロディアは何を残したのか?という点が見えにくくなるので、あえてここで触れておこうと思う。
正義は人間の善悪の価値観で、所詮人工の概念である。しかし、愛は海から生まれた全ての生命に仕組まれた自然の摂理である。人智を超越しているのだ。
アフロディアの死は、冒頭で述べた「人間性」の勝利ではなく、実は大いなる「生命」の勝利なのだ。死もまた自然においては生命の連続の一環で、彼女は生命の母である海に還ったのである。(生命とあそこで書くと、追加説明が必要だったので、少しランクを下げて「人間性」=人間の善なる意志と表現したのだが)
オリエンタルな視点で作品を俯瞰すると、彼女のように皆が信念を捨て、敗北し、諦め、一切のしがらみを捨てることができれば(ある種の悟りに向かえば)、人類は環境破壊に向かう道を反転できるのかもしれない。愛という名の自然の摂理に身を任せ、突き進むより後退すること、来た道を戻ることの意義に一石を投じている。
もちろん、信念ではなく愛に生きたキャラはデビットを始め、何人かが登場していたと記憶しているし、特に地球側では仲間のための特攻を至高の行為として英雄的死が繰り返し描かれてはいるが、彼女の場合英雄性がない。
どっちかというと、もう一つこの物語が繰り返して描く自らが犯した過ちの因果応報による死という側面が、彼女の場合は強いが、実は彼女自身は憎しみの連鎖を切って、メビウスの輪から抜けることに成功しているのだ。。
最も激しく始点から終末への流れに逆らって転向した小さな抵抗は、この物語の問う答えの一つの選択肢とは捉えられはしないだろうか。

○手の届かぬものへの憧れ
マリンにアフロディアはどう映るのか、と、ここで視点を少し変えてみる。
完全な魂は自分と違う不完全な魂に惹かれてしまう。
より救いがたい者を救済したいと彼が願うのは、ヒューマニストの性であり、いわゆる英雄気質にゆえんするのかもしれない。
マリンは(カイザーもそうだが)、彼女が被害者であるという同情的視点をどこかの時点で持ってしまっているので、彼女が如何に非道な行為を行っても、彼女自身の受けた被害の拡大にしか彼らの眼には映らない。それは彼らが諸悪の根元と位置づけているガットラーへの憎悪が深いゆえに、ガットラーによる悲劇の連鎖という見方が人一倍強化されてしまっているからだ。またガットラーへの男としての激しい対抗心は、無意識に、寵愛を受けているであろう華麗な女性をガットラーから奪いたいという秘めたる野心にもつながる。
加えて、マリンは、彼女から弟を奪ってしまったという決定的負い目があり、彼自身もまた彼女の被害の傷を広げた加害者だという意識の呪縛から逃れようもないのである。

にしてもふと思う。デビットもマリンも、何故身近にある安全で幸福を約束された愛ではなく、より遠くにある危険で悲劇的な愛を望むのか、、、
手の届かぬところにあるから、いっそう対象への神秘的憧れが止むことはないのだろう。

○年上の女性
アフロディアはマリンより5歳年上という設定らしいが、TV版の出会いでマリンがちょっと緊張したくらいで特段それに意味はないと思える。というのも、アフロディアは外見は成熟した美女だが、精神年齢はマリンより幼い。二人とも特に年齢を意識していたわけでないので(お互いの年齢を知らなくても問題ない)、年齢差を考慮して観る場面はないと思うが、、、観る側にとってはその少しの数字の障害が興味をそそられるのかもしれない。
源氏の永遠の憧れが年上で母親似の藤壺だったことを思えば、デビットとマリンは凡庸な男達とは違うのだろうとも言えるが、、穿った見方をするとマリンの父親は登場するが、母親に関して一切の描写がないのは不自然で、意味深である。(母親に関する情報を私が見落としているだけかもしれないので、もしどこかにあったら教えてください。)
母性からの庇護が彼は薄いため、美しい女性陣3人とも出会いは敵であった彼を、一様に受け入れるのは、母性本能に突き動かされるからかもしれない(笑)。
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