ログハウス

趣味の画像と家族日記。 主に児童向けの映画、書籍、TVの感想や家族の話題を徒然に綴ってます。

宇宙戦士バルディオス ~その悲劇性 2~

Posted by ふざけおに on   0 comments   0 trackback

4月上旬には、実はこれ「バルディオスの悲劇性」を書いて保存していたのですが、どうもいろいろとそぐわない気がして、、、TV版各話の感想も、冴えないながら少しずつ書いてましたが、どっちを先にあげようかそんなこと気にしたって自己満足の個人的日記だからどっちでもいいじゃん、誰も読まないだろうし、、、とか、なんかアップする気になれなくて、その後スパロボゲームに現実逃避してました。
そしたらスパロボクリアしたら、書きたかった多元世界オチ話題がすっかりかぶってる気がして、、スパロボやる前にアップしておけばと後悔先に立たず。
で、ますます、ゲームに没頭して早2ヶ月。
ゲームの感想もわいてくるし、ひょっとすると、読んでくれる方もいるかもしれないし、しばしネット界に戻ってます。
ここはまずは気力上げて、この話題の続きをば。
ここからは、ざっくばらんに、より個人的とりとめない雑感です。

○絵になる男女
当時、私はTV放送(再放送)の後半の半分くらいしか観ていないです。最初に記憶に残ってるのは、15話「偽りの平和会議」でした。主人公がやたらかっこいいなあくらいで、漫然と見てたし、28話「決死のランデブー飛行」の印象もよく覚えてますが、やっと紅一点のヒロイン(ジェミー)とマリンと恋の予感漂う「恋のランデブー」話だと思って見てました。(「蘇った悪魔」は見逃してたんだと思います。)
それがある日、ふと大学のサークル棟の漫研にあった古いアニメ誌のイラストを見て、驚いたよ@@;、、、
マリンが美しい女性を抱き上げているイラストの圧倒的悲壮感と虚無感。言われればEDに登場してた女の人だと思い当たり、そこで初めて彼女が敵の司令官であり、ジェミーでないと知って、素直に驚きました。
影山楙倫さんの絵だったと記憶してますが、実際のTV放映以上にアニメ誌に紹介されてる劇場版特集の独特の雰囲気や設定に酔ったのが、はまったきっかけでしょう。
漫画や映画でいわゆるお姫様だっこは定番ですが、この二人ほど絵になる絵を私は未だに見たことがないです。主人公が少年だと、女性との体格差が不自然だったり、女性の方の重量感が不自然だったり、どこかしっくりこない絵も多いものです。。
個人的には「風と共に去りぬ」のレッドとスカーレットが二人の物語を想像させてくれて好きですが、影山さんのいくつかのイラストは、悲壮感という一点で比較すると、比類なく美しい男女だと思いました。これ以外にもいろいろバージョンあって、どれも情感溢れてました。
「タイタニック」と同じで、沈む行く悲劇の前の一瞬のきらめきが美しいのですよ。
悲劇的背景にあるから、鮮烈な絵になるのだと思います。

○悲劇耐性
それまでに私がはまったアニメ・漫画というと、「海のトリトン」「さらば宇宙戦艦ヤマト愛の戦士達」「科学忍者隊ガッチャマン」「サイボーグ009」あたりで、必ずどこかに悲劇的要素を含むものでした。中学の時は、愛と復讐物語の「嵐が丘」やシェイクスピアの4大悲劇、特に「リア王」(シェイクスピア最大の悲劇で救いがないですよ~)が好き、小学校の頃も「アルプスの少女ハイジ」より「フランダースの犬」や「人魚と赤いろうそく」等、子供にとって理不尽なほどかわいそうな話が好きでした。
またちょうど80年初頭(私がバルディオスを観たのは82年です)、一番好きだった少女漫画「地球へ、、、」は破滅オチで、同時期のロシア革命を舞台とした「オルフェウスの窓」なんて救いようない悲恋話だったし、「はみだしっこ」も精神崩壊オチに近かったし、、、
そういうのが特に好きだった私は、悲劇耐性が人一倍強いのだと思います。
少女漫画のみならず、劇画ヒーローものの虚無感漂うラストシーンは定番でした。
「あしたのジョー」「愛と誠」に代表される、梶原一騎の男のロマン、ラストは哀愁漂うものばかり。バルディオスは男女逆にした「愛と誠」みたいだなとか、デビットを見て岩清水弘の純愛を思い出したのは私だけでしょうか。
梶原作品で一番辛いのは「巨人の星」の漫画版。あれは本当に救いようがないんですが、その後「新巨人の星」が出たので、まあなんとか救いがありました。星一徹が死ぬシーンなんて、もうそうなるだろうととっくに想像がついてたよというくらい、ありがちでした(笑)
永井豪もそういう破滅傾向強かったと記憶しております。
言われればバルディオスに近いオチとして、劇画デビルマンがあると思いますが、、、劇場版バルディオスはあれほど陰惨ではないですし、とても綺麗な終わり方です。
もし最後にアフロディアだけでなく、マリンにも泣かせてたら、見る側も感情を排泄できたので、それがないのが辛かったくらいで、個人的にはあれでも先を想像する余地を残していると思えて、、、楽観的になろうと思えばなれることを心のどこかで感じながらも、あえて虚無感と余韻に浸ってました。
私は富野作品のようにキャラの死後、幽霊(残留思念)になって生者と語り合うのも、救いがあって悪くないと思うのですが、より冷厳な、その後一切コンタクトを持てない死別も好きだったりします。
バルディオスで言えば、アフロディアは、ためらい傷みたいに胸撃たないで、脳天一発で即死の方が潔くて良かったなとか(ひでえ)
というくらい悲劇耐性を当時持ってたので、私は未放映のTV版も劇場版も冷厳なラストシーンをありのまま、痛みを伴う感動として受け止めることができたのでしょう。
悲劇に浸っていましたが、それは不快なものではなく、不条理の痛みと、永別の悲哀と死への憧憬、、そういった本当は一番生命力が輝いている若い時分なのに、そのときはそれが価値あるものと思えず、下っていく人生の憂愁に背を向け、美しいままに消え去りたい青い感性が求めるものがそこにあったのだと思います。若さ故の死への憧憬を垣間見る作品でした。

   
余談になりますが、悲劇耐性のない子供が増えているような気がします。以前、日記にそのことを書いた気がします。もしそうだとするなら、ディズニーに代表される子供向け娯楽映画が映画の主流になってからは、物語は必ずハッピーエンドになりがちで、悲劇耐性のない子を増やしているその功罪両方、アニメにはあると思いますね。

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