ログハウス

趣味の画像と家族日記。 主に児童向けの映画、書籍、TVの感想や家族の話題を徒然に綴ってます。

続 桜桃忌

Posted by ふざけおに on   0 comments   0 trackback

クローズアップ現代で、昨年おきた秋葉原殺傷事件のK容疑者と太宰の共通点として、周囲からの孤立という点を挙げ、違ってるのは、Kには文章を読んでくれる読者がいなかったとされていたが、、、
違いはもっとあって、確かに太宰は自分の文章にはすこぶる自信があるし、才能を認める人は少なからずいて、Kには自信持てるものはなかったのはその通りなんだけど、
でも一番の大きな違いは、Kは「女」がいないことを最大の不幸だと思ってるのに対し、太宰の場合は本人が消極的な割には、「女性関係」には事欠かずそれが不幸を呼んでるというか、、、
あと、精神病院に騙されて入院させられた件の紹介が一切ないのは、どうしてかな。それが彼の人間不信を決定づけたって、昔ずいぶん言われてた気がするのですが、NHK特番では触れられなかったような、、、

その辺が気になって無性に「人間失格」を読み直したくなって(実家にはあるのだけど)、本屋古本屋を回ったが在庫がなかった。市内の図書館は何故か閉館、隣の市の図書館に行くと、開架はすべて貸し出し中、閉架から持ってきて3時間ほどで読み返した。

あら~、若い時読んだほど、迫ってくるものがない。だけど、若い時には感じなかったもの感じる。

この作品の一番自分と似てると感じる点。変わってる自分を隠すために、周囲の前で道化を演じたことかな。高校の頃はそうだった。だからとっても疲れてた。(でも今は、ありのままの自分でいる。その分、学生の頃にはいなかったタイプの「敵」、変わってる人間を排除しようとする輩や、価値観を人に合わせないのは、老婆心ながらダメだという姑根性丸出しの人にたまに出くわすようになったけど。)
自分ではとても我慢してるつもりなのに、周囲からわがままだと思われてしまうってこともよくある。苦しいのに、周囲にその苦しさをわかってもらえないとかも。。。
もちろん、太宰の場合はとんでもなく頭脳明晰でいろいろなことを考えていたから、常に凡人のマジョリティから浮いてしまい、その感覚は、より顕著なものだろうと想像できる。
女性が太宰作品に惹かれるのは、こんなに女の人のようにセンセィテイブなナーバスな男性がいるってことに驚かされるからかな。男の人って粗野で単純で、自分のようにくよくよ何も考えていないものだから、自分とは遠いもののように思ってる女の人にとっては、自分に近い感性を持つ男の人は自分をわかってくれそうに思える。

この部分の繊細さという魅力は、サリンジャーの「ライ麦畑で捕まえて」や女性漫画家だけど三原順の「はみだしっこ」シリーズにも伺える。人を傷つけまい、エゴを通すまい、より純粋に打算抜きに生きようとすれば、最後は人間社会の枠からはみだしてしまうという、悲哀が共通している。

今となっては、「人間失格」を傑作と思いつつ、この二作の方が好きかもしれない。


女性との関係が、淫らでないからだ。
もちろん、精神的には太宰も純粋なんだけど、、

事実上、「人間失格」は、奔放な女関係に感情移入できなくなった。こっちがお説教くさいおばさんになった証拠かも。これだけひもの根っこになりたい女がいるのか、、、相手が太宰だからな~とか、
にしても死にたいなら一人で死ねよ。たった一人の女性との心中ならまだわかるけど、女を変えて心中というのはどうもなあ。、、昔から感じている、好きになれないとこだ。
彼の場合は無理心中でないけど、元々日本人の無理心中を図る身勝手な気質が好きでないのもある。かくいう私も若い頃、希死念慮に悩まされたことはないわけでないが、絶対愛する他者と一緒にとは思わない。そこが絶対共感できない部分だ。
もちろん、太宰は夫人のことを愛していたから、決して同じ末路へと道連れにしなかったのだろうけどね。都合良く死にたい女を見つけては、心中ってのはどうもなあ。。
小説の中の主人公は、最後の心中してないのだけど、太宰自身がやっちゃってるから、混同してしまう。

一方で、若い頃は恥の多い人生の苦悩に共感し、彼がこうも破滅的人生を歩んでしまった原点が、「父」への恐れと人間への恐れくらいしか見えてなかったのだけど、、、、
確かに子供の頃、怒られるのではないかといってびくびくする気持ち、食卓が苦痛、空腹がわからない、、ってのは自分にもあって、原因は両親の不和と母の不機嫌にあった気がするのだが、やがて反抗期が来て親を否定することでその感覚は鈍磨していった。
我が子を見ると3号は去年まで摂食不安で、給食をみんなと食べられず、毎日弁当を持っていっていた。本当に空腹がわからないようだった。「残すと怒られる(誰かが怒られているから、自分も怒られるだろう)」「嫌いなものを食べられなかったらどうしよう」と、その不安で、自家中毒や過呼吸になってしまうのだ。誰しもが持っている不合理な不安、言葉の持つ曖昧さがわからず厳密に言葉通り受け止めてしまうと、全てが禁止されているような気になって、何かするたびタブーを犯しているような罪悪感を、私も感じたことはあるし、私の子供もそのようだ。
ところが、3号は今年になって、ものすごい空腹を感じるらしく、去年とは別人のように人前で何でも食べるようになった。2号もついこの前まで不合理な恐怖を感じている過敏な子だったが、母親に反抗すると同時に今では何も恐れないむしろ傍若無人に見えるほどに変わった。(落ち着きのなさ、過敏さはまだあるが)
子供は不合理な恐怖に囚われても、いつかは成長と同時に少しずつ解消され、世間の中で生きていくスキルを身につけていくものだろうが、、何かの条件がかみ合わず本来失うべき感覚がそのまま残って成長してしまうこともあるのだろう。 その感覚が残っているからそれを失って忘れ去った者にとって、緻密でリアルな表現に感じるのだが、未成熟のままの大人という印象は拭えないのもその通りだ。

だけど、改めて読み直すと、彼が過剰に過敏だったために起こった、常識の人間関係の範囲で生じた、人間への恐れではないことに気づかされた。
女は理解できない不可思議な生き物としながら、こうまで複数の女と肌を合わせ、共に破滅に至る歪んだ男女関係に帰着してしまう原点は、下男下女による幼少時の性的虐待にあったと思えてしまうことだ。
これが一番彼のたぐいまれな才能と感性が短命に終わった要因で、彼が人間関係を正常に構築できない、幸せになることを拒む理由ではないかと今は思える。悪い奴らが悪い。
彼が自分と死出の道連れに選ぶのは、貞淑で無垢な女ではなく、決まって不貞で哀れな女達である・・・(幼い無垢な彼を汚し堕落させた淫らな者達と同じ種類の・・・)


あと、昔読んだ時はピンと来なかった「桜桃」。
太宰の自殺直前の作品だったと記憶しているが、長男の発達障害に強い不安を感じていることを、今なら読みとれる。さまざまなライフイベントを乗り越えて人は成熟するのだろうけど、乗り越える余力がない時にそれが起こると、その人が生命を健康的に維持するのは難しい。
かわいい我が子が難病だったり、障害があったりすると、子供がかわいいだけに親はどうしようもなく辛い。苦しむことは子供ためではないとわかっていても、死にたくなるほど自分が苦しい。
「人間失格」の葉蔵は、無垢な妻が犯されたことに激しく心を痛めるが、それは彼女がかわいそうだという気持ちに自分が耐えられないほど彼女をいとおしく思っているから。愛しい者の痛ましい姿を見る苦しみは敏感な人ほど耐え難い。これは長男に対しても同じではなかろうか。
難病や障害のある子が生まれると、俄然人の親としての強さ(ある意味鈍感な方がタフでいられる)を試される。夫婦の絆も試される。
それまで夫人に支えられていた彼も、妻が障害児の養育に悩み、支えを求められると、彼は妻子がかわいそうなことにストレスを感じ、踏ん張れず、逃げ出してしまいたくなるのだ。
それは彼が人一倍弱いからというわけでもなさそうな気がする。子供の障害によって、壊れていく若い夫婦をたくさん知っているし、大江健三郎も逃げ出したかったし、現実から目を背けていたと、後に告白している。
弱っていた太宰にとって、妻子のかわいそうな姿を見続けて生きることは重荷だったのではないだろうか。

久しぶりに読んだ「人間失格」には、昔ほど酔えなかったけど、新しい発見はあった。
早速上の子二人には読ませたいと思ったし、自分もまたいつか読んで、また何か違うものを作品と、そして自分に見いだせるような気がしている。
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