ログハウス

趣味の画像と家族日記。 主に児童向けの映画、書籍、TVの感想や家族の話題を徒然に綴ってます。

ザンボット3感想付記 ~私のファーストガンダム

Posted by ふざけおに on   0 comments   0 trackback

ここ数年ガンダムがずいぶん大きくメディアに取り上げられて話題になったので、なんだか気圧されて語る隙もなくなってたのですが、ザンボット3を見て改めて、ファーストガンダム話題をしようかなと思った次第です。

※3 私の機動戦士ガンダム
当時何故、自分が「機動戦士ガンダム」に惹かれたかというと、、、、
人は宇宙という新しい環境に適応して、他者に対する洞察力が進化していったら、少しは戦争や環境破壊が減っていくだろう、という、漠然とではあるが未来への希望を感じさせる作品だったからだ。
仮に古い血縁地縁によるコミュニティを喪失しても、互いを理解しあえる新たな共同体を人は獲得していくのだと、自分の居場所を見つけていく物語だったのが、当時の自分の気分にとっても合っていた。
人とは孤独なもので、誰も本当の自分をわかってくれない、親や兄弟や故郷の古い人たちはまして、自分を縛るものでしかないと、思えていた頃だったから。
いつか新たな人との出会いの中で、人種も言葉も時空も一切の隔てや偏見を超えて、人は分かり合えるかもしれないという希望を主人公が見いだした瞬間の感動が忘れられないのだ。
(完璧に人が分かり合うなんてことを求めること自体が幻想だと今はわかるし、エウレカセブンでないけど、わからない他者がいるから、分かり合いたいと他者を求め続けるもので、それが人間なのだけれど、でも当時は、まずはわかってもらいたいという気持ちが強く、分かり合いながら共に生きる自分の居場所が欲しかったんだと思う)

もちろん当時も、NT(ニュータイプ)はフィクションだとわかって見ていたし、現実と混同することはなかった。
要は、「人同士、その人の人生・その人の思い・その人の苦悩さえも、理解し、思いやれるようになれたら、少しは地球は住みやすくなるかもね」という程度のささやかなメッセージであり、そのささやかさが等身大で良かったのだ。NTとは万能な存在ではない。
この物語の中の感動の中心は、なんと言っても自分の居場所を見つけられなかった主人公が、青春の苦悩の末に獲得した他者との絆、共に存在する場所を見つけた「生きる喜び」にこそある。
私にとって最初に見たTV版機動戦士ガンダムはそういう作品だった。。。。

10年前、

まだガンダムAが出る前で今ほど世間で話題になってなかった頃、ネッ友さんにNTって何?ガンダムってどういう作品なの?と聞かれて、だいたい以下のように説明した記憶がある、当時一切手元に資料ない中でもぱっと自分の言葉で答えられたけど、今となってはもう自信がない。

**************
人類が宇宙に移民する時代になって半世紀。狭い地球上でさえ、人はお互いを理解し合えないのに、広大な宇宙空間では、人同士の距離は物理的にも精神的にもますます希薄になって、争いが絶えず、環境汚染は進む。
そんな悲観的時流の中、ジオンダイクンは、「やがて、人類は、地球上にいては発現しなかった潜在能力を、宇宙という新たな環境に適応して、開花させるだろう」と、「人間を隔てる距離も空間も時間も超え、人と人とが誤解なく分かり合える力を身につけた、ニュータイプに人は進化するだろう」と、宇宙時代にふさわしい新たな概念を提唱した。
しかし、そのジオンは暗殺され、ジオン公国(地球から最も距離を隔てたスペースコロニー)は、地球連邦からの宇宙移民の独立を掲げ戦争を始めた。
宇宙移民である主人公アムロは、故郷のコロニーをジオンに襲撃されたことを機に、モビルスーツのパイロットとして、その戦争に巻き込まれてしまう。
アムロは父も母も遠い存在で、愛すべき対象を持ちえない機械いじりの好きな孤独な少年だった。
彼は宇宙での戦闘の中で、優れた直感力を開花させていくが、それは厳しい環境を生き残るために覚醒した新人類、ニュータイプへの進化の兆しでもあった。
そのアムロの孤独な内面、家族という幻想さえも喪失したアムロの悲哀を、出会って瞬時に理解したのは、皮肉にも敵のニュータイプであるララァであった。二人の出会いは戦場では悲劇となり、結果的にアムロは精神を共有した彼女を殺してしまう。
深い悲しみに沈みつつ、アムロは彼女との出会いで見た奇跡的瞬間が、来るべき人類の未来の姿であることを予感する。
決戦の日の死闘の中、アムロは共に生き残りをかけて戦ってきた仲間達に、時空という隔てを超えて、彼らの精神に直接呼びかけ、脱出の助言をする。戦争の道具に利用されたNTとして能力だったが、今まさに、彼が愛すべき存在として認識した仲間達を生かすために駆使されたのだ。
同時にアムロの脱出を精神感応でナビゲートしたのは、共に戦乱を生き抜いてきた、戦う力を持たぬ小さな子供達であった。
アムロはもう自分は一人ではない、帰る場所があるという、今生きている喜びに満たされるのであった。
その日、1年に渡るジオンと地球連邦は終戦を迎えた。
**********

もう忘れたよ~、あの時勢いで、なんて説明したのか。まあ、でも私にとってはこういう話だということで、、、、

○ザンボットとの共通点は、
「帰還」。帰るべき場所には愛する人たちがいて、互いの生存を掛け値なしに喜び合える。心の拠り所への帰還を果たして、人は今生きている喜びを知るというこの感動の結末だ。

え?シャア??あ、そうかそうか。

*******************
亡きジオン・ダイクンの遺子シャアアズナブルは、最初は復讐心からジオン軍にに潜入するが、やがて父の唱えたNTとは何かを希求するようになる。最後に彼は敵として戦った少年と、その少年の同士であり、幼い頃生き別れになった最愛の妹の中に、人類の理想を見い出したのだった。
******************

ってな感じで、シャアは付け足しみたいですね?!(笑)
あ、物語の内容を説明するのは、イデオンよりそりゃあもう簡単です。はい。
テーマ性はともかくイデオンと大きく違うのは、ガンダムはよりキャラクターに感情しやすい作品だということですかね。


○崩壊する家族像から再生する家族像へ
若者の思春期の自立を描くのには、親は理想的でない方がわかりやすい。ありふれた親であっても子供の自立のためには、親の庇護という幻想を打ち破らなければならない。
勝平の家族は絵に描いたような理想で、アムロの両親は決して理想的ではない。だが、そんなに酷い親でもなく、そこそこありがちな問題を抱えているのがとても等身大に思えて良いのだ。
これがだんだんシリーズが進むにつれ、複雑さを極めていく。
TV版Zのカミーユになると、問題のある両親の上に、親を乗り越える前に、その対象を喪失してしまい、自我確立に失敗してしまった。
ダンバインのショウ・座間は完全に肉親関係が決裂し、リムルに至っては、売女に成り下がった母親に殺されるという、、、だんだん現実離れして破綻していく家族像だったが、親が嫌いだった当時の私にはそんなショッキングには思えなかった。
けれど、家族愛を大事に思っている人には、あまり気分の良い内容ではないかもしれない。そこに考えさせられるものはあって、あれはあれで重厚な作品だと思っている。
だが、ダンバインのショウの両親と対照的に、その続編「リーンの翼」の私生児エイサップの両親は、立派な親ではないし身勝手ではある欠点のある親なのだけれど、子供に教えられながら愛を再生していくので、これまた一連の富野作品の流れとして、円熟を真摯に極めていく作家の後ろ姿を垣間見るようで、感動を覚えてしまうのだ。

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ターンAガンダム、再映画化話もウィキで見た。これは本当だと信じたいなあ。
キエルとハリーのラブロマンスにうっとりした私は、それがない映画版はとっても不満だったので。(おい)
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