3、「海のトリトン」の真実
海のトリトンの衝撃のラストについて、富野氏はこう言及しています。
「子供にとって、一番大事なことは何だろうと考え、35歳の自分が出した結論は、とにかく嘘はついちゃいけないということだった。それが『海のトリトン』という作品」
「何故トリトン族が二千年も怪獣に追われているかというと、それは二千年の恨みを買ってるから。だとしたらもともとはトリトン族のほうが悪いんだという話に、必然としてなる」
トリトンというと、30年程前アニメ誌に掲載されていたイデオンライナーノートの一部分だったと記憶していますが、富野氏は当時アニメ誌の人気投票でトリトン人気が高い理由を『「最終回の価値観逆転にある」と自負していたところ、奥様が「違うわよ、トリトンがかわいいからよ」と指摘した。「この女性のかわいいという感覚がわかれば視聴率も取れよう」』と文章を結んでありました。(奥様のご指摘は同性として、私は今でも正しいと思います。)
あの最終回ラストシーン、虚無感に打ちひしがれながら、海の彼方へ消えていく少年。小さな肩に負いきれるはずもない重い真実とその状況に置かれた自らの運命に途方にくれ、それでも少年はこれから生きる意味を問うために前を向いて進みいくしかない、、、、
トリトンの後ろ姿は、当時(小学3年生だったかな?)私の心に、今も鮮烈に残っています。
自らの民族を守り、ただ生き残るためだけに襲い来る敵と戦ったのに、勝利したところで、少年が手にしたものは何だったのか・・・・
あの冷厳な結びは得難い物語終焉の余韻でした。
この作品を、私は大戦後の価値観をどう再構築していけばいいのか、当時の多くの大人達が隠して来た心の傷を、トリトンの心情に重ね合わせ、重い過去を負いながらも前を向いて日々生きるしかない、人の苦しみと生命力を感じたものです。
ところが、富野氏はもっとシンプルに、見ている子供達に正直でありたかったと回想しています。
それは視聴者を最終回にあっと言わせるために意図した技巧ではなく、あの話の流れからしてあの結末は必然なんだと、この対談で述べていて、目から鱗でした。私はひねったと勝手にステロタイプに解釈していた最終回でしたが、本当はまっすぐなだけだったのです。
むしろ既存のアニメの勧善懲悪、正義の勝利こそが、ひねられた物語だったのかもしれないと、どきっとさせられます。
そうか。トリトンの後ろ姿はストレート過ぎるほどの真実だったから、子供心に忘れ得ない作品だったのだと今更ながら思うわけです。
そして更に、彼にとって見せる対象として意識していたのは決してモラトリアム世代ではなく、「子ども」であったことに改めて頭が下がる思いがします。それなのに、当時子供だった私でさえいつしか忘れて、お子様には難解な「俺たちの富野」像を作りすぎてきた功罪に思い当たるのでした。
「ガキが怪獣に追いかけられてるだけの話で、ただ怪獣に勝ちました、パチパチってそんなバカな話、作れるわけないじゃない。だってそんなことやったら嘘になるから。」
ところが富野氏は子供に対して嘘はつけないという良心に従って描いたのに、「虫プロの先輩達に袋だたきに遭って、即出入り禁止になった。」とか?!そうなんですか?<虫プロさん;
富野さんが子供の無垢な目を想像して考えていたことは、昨年ポニョを発表した宮崎氏が、
「悪人を倒せば世界が平和になるという映画は作らない」と言うのも
日本映画史上、世界中で最も多くの子供達が見たポケットモンスター「ミュウツーの逆襲」を、何故脚本家首藤剛志氏が「不戦」で落としたのか、一生懸命語っている のも、本質的に同じではないかと私は思うのです。
目の前で映像を見ている子供がいることを想像した時、彼らは大江健三郎氏の言う「自然の文法」に逆らえない真摯な作家達なのかもしれません。その希有なセンスを持ちうる作家を、私たちはしっかり見抜ける鑑賞者であり続けたいものです。
余談ですが、 トリトンが女性から見てかわいいのは、キャラデザインもさることながら、あまりにかわいそうで、女性にとってかわいそうとかわいいは感覚的にかなり近いから・・・、当然、そこに苦悩するキャラに自分の痛みを投影してるのでしょうが、やっぱり傷ついた戦士を膝枕で癒してあげたい、銃後の女の幸福を夢想したりするから、、ですかね?どうでしょう?ダメ?(ですよね^^;)
