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趣味の画像と家族日記。 主に児童向けの映画、書籍、TVの感想や家族の話題を徒然に綴ってます。

ガンダムエース9月号過去から未来への歴史的対話「富野由悠季安彦良和対談」感想 Part5

Posted by ふざけおに on   0 comments   0 trackback

5ニュータイプのフォーマット
富野氏は「小説Zガンダム」の後書きで、確か読者に対し「貴方の日常の中にNT的なものを見つけて下さい」みたいなメッセージを記していたと記憶しています。私はこの後書きを執筆した当時の富野氏の心境が少し心配になったものでした。

この対談では安彦氏が、富野氏がNTに拘った時期があったこと、それがカルト(オウム)に少なからず影響を及ぼした点を指摘しています。対し、富野氏はそれでもNTという言葉がオウム以後も生き残ったのは、ニュータイプが一般名詞で汎用性があり、うかつに規定しなかったことが良かったと述べています。また拘った時期については自分がバカだったから(笑)と一蹴しています。

安彦氏は
ニュータイプが強調されたおかげでガンダムは暗くなった、病気になった。(略)だからオリジンでは、ニュータイプという本来のテーマでも何でもないものをガンダムからからひっぺがそうとしている。」「20周年の印刷物で、ガンダムのテーマがどうやらNTにあるらしいと必死に理解しようとして議論を重ねている人たちの姿をみて、これはマズいなって感じた。ある種の解釈を持ったヤツが別の解釈を持ったヤツに、お前は分かってない、下がれっていう」と「一人歩きをし、カルト的になったりイズム化したりする」懸念を持っているようですが、富野氏は「その言葉に対するあの程度の反応に対して感じすぎ」とやや引いたスタンスのようでした。(NTをカルト的に熱く語る輩がいても基本放置、心配するほど実社会に影響はないってことでしょう)
富野氏はむしろ安彦氏の、否定的ながら「安保」や「全共闘」と言った「時代や思想に拘った」言葉遣いが理解できないと返しています。
富野氏の拘りは明日の「生活」だと。「生活に立脚しない思想信条は危うい」とドストエフスキーの「罪と罰」でも描かれていましたが、頭で考えすぎて実際の生活感が希薄になり、現実感覚から乖離していくことの問題を富野氏は言いたいのかもしれません。
ネットが人を賢くするなんてグーグルのついてる大ウ」(いわゆるネット情報で世界を見た気になってる人のことでしょう)「だから人はNTにならないといけない。これはイデオロギーとはちょっと違う」という富野氏に、
安彦氏は「だからファーストのラストはよくできてるんだ。ミライとかチビたちとかみんなNTになる、なあんだ、そうだったんだっていうヒキ、それで良かった。」とそれ自体に特に意味がないんだというところで、対話にオチをつけてます。

私自身、設定やNT論をコアに語るマニアを見ると、何か違うと感じるのですが、でもそいう自分自身もついつい主題の定義づけをしたくなってあれこれ理屈語りに陥るわけで、他人様から見れば私も滑稽に映るんだろうと思います。
富野氏に、「たかがロボットアニメを見て、お前ら、本気になるな!」と揶揄されるのもっともだと思うし、逆にもしここで富野氏がそれを真に受けてなまじNTを否定したり、Z劇場版で定義し直そうとしたりしたら、むしろ主題を外れていっただろうから、この富野氏の距離感は最良の成熟した対応だと思い当たります。
一方、論争の反動から制作に携わった一人として本来の主題に目を向けさせたいという安彦氏の使命感にも似た、作家魂も極めて好感を持てるものなのです。

私は「千と千尋の神隠し」の話題を何度かしてますが、あの感動ってなんだかわからない明確に言語で表せないものなのです。でも、映像から迫ってくる主題は確かにあるんです。つい鑑賞者はそれが何かを語りたくなってしまうのですが、それがいつまで経っても「これだ」と規定しきれないからあの映画は傑作だと私は思うわけです。
何のことはない、実は「機動戦士ガンダム」のラストシーンの感動は、同様に非言語的・言外のところにあって、「千と千尋」と同じ種類の「なんだか分からないけど感動させられ」自ずと誰もが迫っていってしまうところに主題がある作品なのだと思います。

この二人のNT対談を読んでると、実はSWでいう、「フォース」とは何かという問いに、ルーカスが笑って答えたことを思い出します。人々は言葉にしうるあらゆる概念を駆使して「フォース」に迫ろうと生涯追い続け追い求め、限りなくそれに肉薄はするのだけれど、、、けれど誰もが完全には定義しきれない。ただそこに「フォース」があるだけ、というやつと同種のものがNTの正体なんだと思います。

大人になって(10年ほど前)、「銀河英雄伝説」をCSで全話熱中して視聴したのですが、いわゆるポストガンダム、アンチNT(超能力者&超常現象)、アンチイデオロギーを見事に魅せてくれた大河ドラマだと感心したものです。

原作を読破したところ、小説の完成度が高いので、アニメ作品として同列に語れない部分もあるのでしょうが、ただ明らかにガンダムやヤマトといったスタンダードなアニメ作品の描写の偏りを、言われればなるほど見事に補正した作品だったという印象でした(いつも印象批評ですみません。)
有能な独裁者と自由を愛する軍人、究極専制政治こそが政治の理想を体現するものだが、ハイリスクなので自由主義の芽を摘んではいけないという作劇(虚構なのに、リアルに感じる歴史大河ドラマ)に訴求力あり、個人の内面には踏み込まないけれど、それぞれの人物の価値観を自然にかつ魅力的に描き出していたので、大好きな作品です・・・
が、唯一いわゆる富野氏のいう「コモンセンス」から外れてしまってると思ったのは、終盤「カルト」への憎悪を過剰に振りまいて、ドラマが振り回されてしまっていることです。オウム事件の時代背景があり、もろに影響を受けてしまった頃なのでしょう、、、、それはその時代にとっては重大な要素で、多くの共感を持たれる描写であったにせよ、後年読むとそれが作品の偏りに見え、拘ってしまっていると感じてしまうのです。ある種の色が定着していると言えるのです。
逆も真なりで、ガンダムにおけるNTはオウムの時代に見た時は、「カルト色」を感じて忌避したくなったものですが、時が流れれば最初に得たわけのわからない感動という白紙の状態にフォーマットされていくのが不思議です。。

「機動戦士ガンダム」は、見るものに確かに迫ってくるのに簡単には言葉にできない普遍的主題を持つから、アニメ作品の傑作だと私は思うわけです。

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うまく思いをまとめきれないまま見切り発車で書き始めた対談感想もあと2章(多分)で終わるつもりです。すみませんがもう少し拙文駄文におつきあい下さい。
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