ログハウス

趣味の画像と家族日記。 主に児童向けの映画、書籍、TVの感想や家族の話題を徒然に綴ってます。

ダブルオーの悲劇~だから私は~ その3

Posted by ふざけおに on   0 comments   0 trackback

3,刹那的中東紛争の本質
刹那の抱える心理的問題の原点は、幼児期にカルトの教えで「神の国に行く」ために両親を銃殺したことに端を発しています。あれは恐らく宗教上の教えではなく、戦士を育てるためだけの組織の詭弁に、判断力のない子供だから彼は利用されたのでしょう。
幼かったとはいえ、彼はその犯した罪を前に何を拠り所に生きていいか迷いますが、ソレスタルビーイングに入り、ガンダムで世界から紛争をなくすことが償いだと考えたようです。彼にとってガンダムは、魂の救済に思えたようです。確かそんな話でした。が、、、

でもよく考えると神の国に行くために両親の命を奪い、世界の平和のために大地を焼き他人の命をも奪う。
自分は幸せを求めず、信じる正義(平和)のために武力を行使する。

・・・これって、どこかタリバンそのものの危険性に近いと思いません?
タリバンやアルカイダの若いテロリスト達は、池上彰氏の言葉を借りると、「現世に絶望している若者がジハードで天国に行くことが夢になっている」「彼らに守るべきものはない、いつ死んでもいいから死に場所を自爆テロに求める」のだそうです。
彼らには生活の基盤がなく、守るべき家族も愛する人もいないのです。
自分たちの未来に希望を見いだすことができず、幸せを求めないから、グローバリズムによって壊された民族の平和のために、強大な武力で弾圧してくる異教徒とその一味に対し、テロで大勢を道連れに自殺するのです。
もし彼らが自分の幸せを求め、愛する人、愛してくれる人、守るべき場所、耕すべき大地があれば、自分の命も他人の命も奪わないでしょう。

そもそも、ガンダムという強大な兵器で一般民衆に紛れ込んだテロリストを根絶できるのか?<刹那

刹那が、見なければならない逃げてはいけない現実は、自分の命を生み出してくれた両親を殺害したことです。
だからこそ、むしろ彼は親を亡くした孤児達の中に入って、命を育む現場から目を背けてはいけないのだと思います。

少なくとも紛争が終わったら、彼がやるべき人としての償いは、武器(銃)を捨てて、大地に作物を耕し、戦争で子供を亡くした老夫婦を助け、戦争孤児を育てることです。
人を愛し、子を産み、生物が脈々と生命をつなぐために遺伝子に組み込まれた「愛」が何であるかを彼は身をもって知らなければならないと思うのです。
大地に作物を育てることは難しく、焼くのは一瞬です。
実体験なしに、厳しい環境の中で、生命を育む奇跡の連続を知らない、かわいそうなアダルトャイルド刹那には、永遠に生命の尊さがわからないでしょう。
親殺し、子殺しが何故いけないのか?
人を愛し、幸せを求めない者には、永久にわからないでしょう。
アニューを殺されたライルの苦しみ、サジとルイスの負った心の傷、世界中の戦争とそれをなくすための戦争で傷ついた恋人達、家族の流した涙がわからないでしょう。(こたつさんの指摘通り、サジはルイスの心配と同時に、姉の死の真相にも迫りたいと思うのが人情でしょうなあ)
自分の守るべき愛する者を持ってこそ、愛する人を殺されることがいかに悲しいか、命を紡いだ子供に親が殺される、それがいかに非道なことか、身を持って知ることができるのです。
自分と同じように誰かの愛する人を殺したら、同じように苦しむだろうとわかるから、安易に人を殺すことができないとわかるし、まして親は自分の生命の源だから、自分の生命を大切に思う者は親を殺せないのです。
自分の生命が大事でない者は、自分も他人の生命もどうでもいいので、殺します。

刹那がもし誰も愛さない、幸せを求めない孤高の者なら、それはSFでよくある「地球再生のコンピュータ管理システム」とどこが違うのかと。
刹那は人間とは違う超人間として、母胎から産まれた生物であることを否定するのかと。
主人公、刹那を人たらしめようとする、マリナの手紙こそが人間性の本質でしょう。
戦場で誰かを傷つければ誰かの幸福を壊しているということ、その重大さを我が身のこととして知り得る者こそが、愛する者を守るためだけに(=愛する者のために自分の生命を守るためだけに)、武器を持って戦うことを許されるのだと、私は思います。
人の苦悩や愛を知らずにして、殺人許可証のあるヒーローになる資格はないってことです。

セルゲイの息子(アンドレイ)も、人の子なら苦悩の末に失明でもしてカテジナよろしく巡礼でもさせるところでしょう。彼もまた、生命の源である土にまみれて生きてみない限り、命を奪うことに何の抵抗もない殺人マシーンのままでしょう。それこそが中東紛争のテロリストの抱える精神の脆弱さと同じなのに。

※ドストエフスキーの「罪と罰」
優秀な学生ラスコーリニコフは貧困と病に冒され、ある一念に取り憑かれます。正義のための殺人。それも完全犯罪の空想です。
ある日、彼自身、半信半疑のままその思念を実行したのですが、、偶然に偶然が重なり、彼の完全犯罪は成就してしまったのでした。
その際悪い奴ばかりでなく、彼の持つ社会正義の中で、救いたいと思っていた側の弱きものまで巻き添えしにしてしまいました。本質的に善良な彼は罪に怯え、自暴自棄な日々を重ねます。
彼の魂を救済したのは、彼が罪を犯してでも守りたかった最愛の妹と、貧しさに喘ぐ家族のために売春婦に身を貶めた誰よりも心清らかな女性でした。彼はその女性に深く同情を寄せています。(ちょうど、セイラとララァみたいな女性達です)
自首した頃の彼は知識層としてのプライドを捨てきれないまま獄中で暮らしますが、やがて愛と信仰の前に全てを委ねます。気高い心を持つ女性と大地に生きること、慎ましい幸福を希求して生きることこそ、罪の償いであり、神の思し召す人の道だと彼は悟るのです。
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