ログハウス

趣味の画像と家族日記。 主に児童向けの映画、書籍、TVの感想や家族の話題を徒然に綴ってます。

『木精』~逃走・帰還・回帰~

Posted by ふざけおに on   0 comments   0 trackback

繰り返される永遠の昨日
息詰まる閉塞

四方
切り取られた空が世界と信じて疑わない
累々たる精神の屍は、
私に無個性を強いる
心に杭を打てという

明日を生きたい

私が私である場所を求めて


木精



高校の頃、多感だった私には居場所がこの世界にはないように思えていました。自分には平均化した無個性を強要するこの世界はとても生きにくかったのです。
学校と家庭と狭い地域が世界の全てに思えた場所に、私の求める愛も理想も存在していませんでした。
最早、世界か自分のどちらかが破滅しかないような、漠然とした黒い衝動が私の心に暗く陰を落としていた頃・・・・1枚のアルバム、『木精』を手にしました。
何度も何度も繰り返し聴いて涙した日、哀切深い歌声に心ふるわせ、心が浄化されていく感動は忘れられません。

特にB面風の詩3曲に繰り広げられる透明度の高い幻想的世界は、当時の心境に見事にシンクロし、汚れた現実の泥濘から私を掬い上げてくれました。
1曲目「風の轍」は、閉塞した現実から「自由への逃走」を、
2曲目「ゆうすげ」はファンタジーへの「旅立ちから現実への帰還」を、
3曲目「木精」は傷ついた魂を「癒やしへと誘い」、
私は自分が帰還する場所をやっと見つけたと感じ、深いカタルシスを得られたのでした。
持っていたすべてのレコードの中で一番気に入っていて、私にとって全ふきのとうコンテンツと「木精」一枚は等価です。

当時細坪氏の音楽は、生身の人間を感じさせないバーチャルな世界に思えてました。だからこのアルバムの作者その人自身の心がどう映し出されているのかなんて、気にもならない程、自分しか見えていませんでした。自分は何故他人とこうも違うのか何故誰も理解してくれないのか、自分の内面にしか興味が向いてない青い時でした。
でも今改めて聴きなおしてみると、実は作者は私とは真逆のベクトルに向かっていたことに気づかされ、少し戸惑いを感じています。
彼は虚構から現実への帰還を希求し、私は現実から虚構への逃走を希求し、完全にクロスしていたのかもしれません。。
でも恐らくそれは結果的に、どちらも自分自身への回帰に他ならないのです。

私自身は魂の安息をファンタジーに求めることで自分を愛することができ、苦い現実にも自分を失わず思春期を無事通過できました。
今ある私が私のままなのは、「木精」が私を還してくれたからです。

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○風の轍
~四角い喫茶店の四角な窓から円を描き続ける黒い鳥が見える~
哀切深い曲調で歌われる『風の轍』の詩のレトリックは秀逸です。
歌われている情景は虚無的で、伝わってくる心情は喩えようもなく切なくて、胸が締め付けられるようでした。まるで私の視界に映る世界のようで、精神の自由を束縛されていると感じた当時の私自身の心象風景と同じに思えたものです。

~黙り込む前に海を見に行こう~
~アスファルトを蹴って僕は風になる~

このフレーズで私には十分でした。私は虚構の中に、風となり海を見て、自身の心を解放することができました。※

○ゆうすげ(メルヘン)
どこか遠い世界の物語。少年は、新世界へと冒険の旅に出ます。希望と不安を胸に抱き、勇気を武器に。よくある冒険ファンタジーです。しかしこの物語の少年は愛も感動も獲得できません。彼がファンタジーに探していたものは愛でも感動でもないからです。
少年はいくつもの夜を、気の遠くなる歳月を旅に費やします。けれどいくら探しても彼が求めた新しい世界を見つけることはできません。彼が探していたものは一体何だったのか。それは「自分自身」だったと気づいた頃、少年はもう少年ではありませんでした。
徒労の果て彼が帰還した故郷は、みすぼらしく老いた一人の男を冷遇します。
疲れ果て絶望にさえ摩耗した彼の目は、道ばたの一輪のゆうすげの花に初めて気がつきます。
その可憐な花は知っていました。彼が本当は誰であるのかを。彼はやっと自分を見つけたのでした。
彼の瞳に涙があふれます。

彼の涙に私も幾度も涙し、その度カタルシスを得ました。


「風の轍」と「ゆうすげ」の心象風景は、中一国語の教科書に掲載された杉みき子の「あの坂をのぼれば」によく似ていると私は感じます。けれど、「あの坂をのぼれば」のように、ありがちな明るい希望に満ちた健全な児童文学と、「ゆうすげ」らは一線を画すのです。その味わいは希望に満ちたハッピーエンドでも沈鬱な悲劇でもありません。「自身への帰還」という深い余韻で結ばれています。
(ちなみに「あの坂を」は80年代初頭に発表された作品なので、79年の「木精」の方が発表時期は先です。)

この作品の「ゆうすげ」とは少年にとって何だったのでしょうか。
ありのままの彼を受け止めてくれる存在=「最愛の人」なのかもしれないし、還るべき場所=「故郷」なのかもしれません。
でも当時、愛すべき対象を身近に持ち得なかった私にとって(故郷さえも憎しみの対象でした)は、ゆうすげは自分自身の中のあるものと解釈していました。
どんなに外界を探しても、自分は自分の中にしかないということだと。

○木精
都会という砂漠の中で、彼が育てた一本の樹木。やがてそれはオアシスとなり、乾いた彼の心を癒やしてくれます。
よく言われる胎内回帰願望という解釈もできそうですが、そこまで内向きではなく、もっと耽美主義的作品に思われます。私は読んだことのある三島由紀夫や梶井基次郎のあたりの文学的描写を連想しますが、細坪氏自身は堀辰雄や立原道造を愛読されたと語られているので、そのあたりの影響もあるのかもしれません。
また昔、細坪氏はよく竹久夢二の描く女性に惹かれると語っておられたと記憶しております。この歌詞に登場する木の精は、リアライズした美しくも儚い女性なのかもしれません。私なら俗っぽく当時人気だった松本零士の描く肉感のない女性をイメージしたりもします。
でも当時、10代後半といえど奥手だった私は耽美な世界を堪能するスキルがなかったので、「木」そのものが出すオーラのような空気だと解釈して聴いてました。(前述のゆうすげも花そのもので、擬人化したイメージは持ってなかったです)
聴いている私自身、薄汚れた日常に疲弊し傷つき麻痺した心が癒やされて、豊潤な感性が再生されていくように思えました。

また聴き手にとって、彼の交信してる対象がなんであるのか不明なままその対象に対する思いにどんどん引き込まれていく不思議な感じが独特で、私が聴く他のアーティストにはない世界でした。(最近では僕のエレファントという曲が近い味わいがあるように思います)
それに私はソロコンサ-トで細坪氏が「木精」を歌われた時の神秘的感覚を鮮明に記憶しています。幻想的コーラスと客席を滑る照明に、自分が今どこにいるのかわからなくなり(ひとりの冬なら来るなで味わった感覚より幻想的)、完全に現実から切り離されて異世界に来てしまったようで呆然としました。
・・・あの非日常的体験の記憶は、今も私の感性を純真だった頃に戻してくれる気がします。
ひとりの君へ

私にとって生涯忘れることのできない曲群です。

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思い入れ深いアルバムなのですが、なかなかその思いの通りにはうまく語れないものです;
私が「木精」に心打たれ涙していた高校時代は、私にとってはあまりいい時代ではなかったので、その危機的心理状態と無関係ではないようにも思います。
つまらない内容ですが、個人的経験も少しだけ参考までに・・・
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